JKNETへのレクイム
                      牧小学校 石野正彦

 1996年12月、インターネットの嵐が吹き荒れた年の暮れにJKNETはひっそりとその幕を閉じようとしている。恒例のJCOM忘年会で終幕を引くことが最終的に決定された。

-------------黎明期----------------

 1989年春、上教大の大学院に入った私はいろんなことに触手をのばし、修論テーマを模索中であった。結局、違うテーマで修論を書くことになるのだが、パソコン通信による教育もその中の一つであった。
 南部先生に相談し、9801Fで実験をさせていただけることになった。新潟大学の生田研究室へお邪魔して勉強させてもらい、まずは簡単なホストを作成して研究室の9801と自宅のX1を接続した。
 8月、本格的にホストを作成することになった。機械は専用に9801vm10と2400bpsのモデム2台を購入していただいた。メニューを考え、そして中にいれるデータも作った。
 しかし、肝心の通信してくれる相手がいない。そこでさらに1200bpsのモデムをいくつか研究費で購入してもらい、これはという学校へ持っていき使ってくれとお願いして歩いた。
 僻地複式校での勤務経験から、複式少人数学級の子供には絶対有効な教育手段と考えていた。そこで、当時、中ノ俣小学校の教頭だった渡辺先生のところにもお願いしに行った。
 渡辺先生の指導のもと、子供たちはマノ(JK)通信を積極的に行ってくれた。また、家内が前年までの養護教諭であり、その年から養護教諭が廃止されたため、保健だよりや健康相談をパソコン通信で行うことにもした。
 翌年は、小川先生が上教大に来て、いろいろとめんどうをみてもらうことになった。1990年の秋には北海道の幌延中学校で同じシステムのホストを作ることになり、小川先生や院生の仲間とワイワイガヤガヤの楽しい北海道旅行を行った。

--------------興隆期--------------

 私が大学院を出た頃から、パソコン通信を行う教員数も増え、ユーザーが飛躍的に増加した。毎日の書き込みも増え、森沢先生や渡辺先生を中心に、指導案データベースや上越の地域データベースのプロジェクトも取り組まれた。
 新潟に転勤していた私は、毎日、遠隔の地からアクセスして交通整理を行っていた。
 東頚城の指導主事になっていた森沢先生から頼まれ、安塚町の理センに東頚城ネットを作成することになった。森沢先生は、学校訪問にはノートパソコンとモデムを持って歩き、精力的な伝道活動?を行った。おかげで、東頚城の全学校にコンピュータとモデムが整備された。
 ネット上での会議や活動がさかんに行われ、LOGの記録もどんどん増えていった。

--------------停滞期--------------

 インターネットの声が聞かれ出したのは戸田先生が上越に戻ってきた頃であったと思う。そのころ、JKNETのお守りとJCOMの万年幹事と貧乏人の子沢山で音をあげていた私は、ラーメン一杯をおごって戸田先生をずるずると仲間にひきこんだのだった。
 あちこちでインターネットの接続実験が行われ、当時、森沢先生が校長をしていた中郷小では100校プロジェクトに参加することになった。
 JCOMの主要メンバーやJKNETの常連はどんどんインターネットに移行していった。やがてLOGの数も減り、その役割も薄れていった。24時間勤務で5年間動きっぱなしだったコンピュータもハードディスクが壊れ、EPSONのマシンに変えられた。(モデムは健在である)

-------------終 末----------------

 小川先生から、JKNETをどうにかしたいという声を何度かきき、のばしのばしにしていたが、もうその使命を果たしたと考え、私の青春の思い出の幕(?)を閉じることに同意した。

-------------後始末----------------

 JKNETのデータはJCOMのホームページに何らかの形で残しておきたいと考えている。また、その役割はACE-JCOMやNICEでの活動に引き継がれると思う。

JCOMのURL
 http://hasu.educ.juen.ac.jp/jcom/index.html
NICEのURL
 http://toki.ed.niigata-u.ac.jp/home.html

-------------最後に---------------

 数多くの人との出会いを作ってくれ、ネットワークは機械と機械を結ぶのではなく、人と人を結ぶことを教えてくれたJKNETに感謝している。
 since1989.9.1
  ver.up1993.8.25/1994.9.17/1995.10.31/1995.12.26
 to 1996.12.吉日