吉川町と酒造りとは、歴史的にとても深いつながりをもっています。
江戸時代初期には、城下町や宿場町などは別として、普通の農村で酒を造り販売することは禁じられていました。
それが、なし崩し的に認められ、造りはじめられたのは十八世紀末のことです。
東田中の八木家では、元禄四年(1691)に酒造を始めます。県内の農村部ではもっとも古い例の一つです。
それ以来、吉川町での酒造は、だんだん盛んになり、酒屋のあった集落は江戸時代を通して二十七もあり、中には一つの集落で複数の酒屋があったところもあります。
この密度の深さは大変なものです。産米を年貢に納め、食料とし、なお酒に加工して販売する、地域全体としての高い生産力を示しています。
ここで、吉川杜氏の技術が育ち始めました。江戸時代後期、江戸を中心とする都市人口の急増、ひいては酒需要の高まりの中で、江戸周辺の北関東の酒造労働者が不足となりました。そこへ吉川杜氏たちが展開していったのです。
いろいろな試練の中で、ますます技を磨き、中には関東に定着して酒造業者に成長した人も多く生まれました。
信越・北陸・中部・関西へも展開してゆきました。これは吉川だけでなく、頸北地方一帯の傾向だったのですが二十世紀半ばころから吉川の杜氏が群を抜き、現在なお県内一位、ひいては全国でぬきんでた杜氏の集団を吉川町が抱え、その象徴として吉川高校醸造科が存在します。